一杯のラーメンから始まる思考の連鎖


お疲れ様です。百花繚蘭の店主です♪

まだ街が完全に目を覚ます前、柳橋の市場はすでに動き出している。
湿った空気に混じる魚の匂い、行き交う人の声、氷の砕ける音。

いつも通りの朝。
けれど、同じ朝は一度もない。

仕入れの前、ふと暖簾をくぐる。
ラーメン大河さん。

何度も食べている一杯。
「美味しい」と分かっている一杯。

湯気の向こうに見えるスープは、今日も濃厚に乳化していて、
表面の油がゆっくりと揺れている。

箸を入れ、麺を持ち上げる。
スープを纏ったそれを口に運ぶと、
まず最初に来るのは脂のコクと温度。

遅れて、香り。
そして麺の食感。

その後に、ようやく“全体”としての味がやってくる。

やっぱり美味しい。

そう思った瞬間、なぜか少しだけ引っかかる。

——何が美味しいんだろう。

脂なのか。
香りなのか。
麺なのか。
出汁なのか。

どれも確かに美味しい。
けれど、それぞれを切り分けた瞬間に、
“美味しい”という感覚の輪郭がぼやけていく。

まるで、正体を掴もうとした途端に逃げていくような。

ふと、周りに目をやる。

市場の中。
食材が並び、運ばれ、選ばれていく場所。

料理になる前の“素材”が、すぐそこにある。

その中でラーメンを食べていると、
ただの一杯として完結しない。

頭のどこかで、勝手に分解が始まる。

これはどんな出汁で、
どのくらい炊いて、
どんな意図でこの濃度にしているのか。

でも同時に、そんな分析とは別のところで、
確かに「美味しい」と感じている自分もいる。

そのズレが、また疑問を生む。

——料理って、何をもって美味しいんだろう。

味の強さか。
バランスか。
香りの抜け方か。

あるいは、そんな要素ですらなく、
食べている時間や場所、
その日の体調や気分まで含めたものなのか。

答えは出ない。

ただ一つ分かるのは、
この一杯が、確かに自分の中で“成立している”ということ。

美味しい、と。

その理由を言葉にできなくても、
身体はきちんと理解している。

料理とは、説明できるものだけで出来ているわけではない。

むしろ、説明できない部分にこそ、
人が「また食べたい」と思う何かが潜んでいるのかもしれない。

湯気が少しずつ薄れていく。
丼の中身も、ゆっくりと減っていく。

考えながら食べる一杯。
それでも、いや、だからこそかもしれない。

最後の一口まで、ちゃんと美味しかった。

市場を後にする。

また一日が始まる。

答えはまだ出ていない。
けれど、この問いはきっと、今日の料理に混ざっていく。

そう思いながら、包丁を握る。

ではまた明日^_^

百花繚蘭 について

名古屋 覚王山で小さな日本料理店 「百花繚蘭」 を夫婦で営んでいます。 僕なりのイノベーティブな料理を月替りのお任せ懐石にてお出ししています。